| 2003年の日記から。 |
| 10月15日(水) はれ |
| 小淵沢で行われた「文学講座」に行ってきた。県立文学館主催である。毎年3回、県内の3ケ町村を廻って開催するのだそうだ。もう20年続いている伝統ある講座らしい。来年あと3ケ町村廻って無事終了するというから、県内には63ケ町村あるのだろうか(~_~;) 計算したかのように町村合併前に終る。 それはともかく、本日の正式講座名は「なまよみの甲斐の文学講座」という。なまよみ、とは甲斐のまくらことばで、「みすずかる信濃」「あおによし奈良」といった類と同じだ。 講師は保阪庸夫さん。保阪嘉内の息子さんだ。演題は「宮沢賢治と保阪嘉内」 保阪嘉内とは韮崎出身で、石川啄木に傾倒し盛岡高等農林学校に行って賢治と出会い、無二の親友となった人物である。賢治との手紙のやりとりが生涯続き、その70数通は筑摩書房から書簡集として発行され、研究家に大いに重宝がられている。 第一部の「セロ弾きのゴ−シュ」の朗読は余計だった。「朗読」というと多くの方が想像するあの典型的な雰囲気と読み方だった。眠くなることこのうえなし。司会によると朗読の方は高名なのだそうだが、そんな具合だからだれも「朗読」なんて聞きに行かなくなる。おつきゆきえさんの朗読を皆に是非聞かせたい。ゆきえさんはまったく別格だ。いや、別世界といったほうがいいだろう。世間で言う「朗読」とは違う世界の「朗読」である。だいたい「朗読」という言葉を良く見てみたまえ「朗らかに読む」と書いてある。しかし世間の朗読は「暗く読む」「暗くなる」「眠くなる」(~_~;) 今日のもそうだった・・・。 おっと、余談であった。講演のことだ。 結論から書くと、新事実や驚くことは聞かれなかった。しかし、庸夫さんの「賢治がかなり八ヶ岳から影響を受けて本を書いている」とする基本認識は私には嬉しかった。風の又三郎も銀河鉄道も、私の認識とほぼ同じである。嬉しかった。もっとも「八ヶ岳」を「嘉内」と置き換えれば、庸夫さんにとっては当然だろう。なにしろ自分の親爺が「あの賢治に影響を与えた」のである。誇りにさえ思っていることだろう。 だが、庸夫さんは小学3年の時に親爺「嘉内」とは死別している。賢治との交流のことや、嘉内の行動や心理などについては、第三者の賢治研究家、嘉内研究家などと同レベルではあってもそれ以上ではないと見るべきだろう。庸夫さんの語るところが他の研究者達と違うところがあるとすれば、身内への愛情と追慕だ。それが研究にどういう影響を与えるかは単純には言い切れない。後世の判断にゆだねるのみ。 庸夫さんが小学校に上がるか上がらないかの頃、親爺の麦踏を手伝ったそうである。寒くて寒くて仕方なく、はやく家に帰りたいと思いながら麦を踏んでいた時、親爺は八ヶ岳を指差して「寒いだろう、この風はな、あの八ヶ岳から吹いて来るんだ」と話してくれたそうである。 それだけのエピソ−ドだが、私には嘉内と賢治の関係まで読み取れるエピソ−ドだ。 最後に「雨にも負けず」を全員で朗読したが、これは余計だった。だいたい、配られた詩が横書きである。裏には意味がすぐ読み取れるようにという配慮からか漢字とひらがな混じりの文で同じ詩が又横書きで印刷されている。まったくこれを用意した係員にデリカシ−がない。原文を尊重していない。つまりこの企画に対する「思い入れ」がない。庸夫さんは気にしていないようだったが、「県立文学館」主催の「文学講座」にしてはおそまつである。 だが庸夫さんがちょっと面白いエピソ−ドを話してくれた。「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」という部分。 賢治の手帖には「ヒドリノトキハ・・・・」と書かれているそうである。これが最初に本となる時に既に「ヒデリノ」と校正されていた。「ヒデリ」とは「日照り」である。日照りが続いて困惑する農民達のためにナミダするのである。 しかし「ヒドリ」となると話は違う。かの地方では「ヒドリ」というのは「日雇いの人足」のことをいう。「日取り」とでも書くのだろうか・・。田畑がおもわしくなく、ヒドリに出るしかない農民を思ってナミダを流すのである・・・。 という説をかつての賢治の教え子の一人が唱えて、研究家のあいだで大騒ぎになったそうである。 いろいろ調べていくとやっぱり「日照り」の意味が正しかろうということになって、騒動は治まったそうだ。 ところで今日の受講者はおそらく100人は超していた。皆すきなんだなぁ・・。 そして、今日の小淵沢は一日「賢治デ−」だったそうだ。昼は子供向けに何かやって(何をやったかは聞き逃してしまった)夜はこの大人向けの講座。小淵沢にもだいぶ賢治ファンが多いようである。よしよし。 って私が喜んでも仕方ないんですけどね・・(~_~;)
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