| 八ケ岳の賢治と風の三郎社(3) |
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〜八ケ岳の賢治と保阪嘉内〜 |
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2003・9・3記 |
| ■高根町樫山に「風の三郎社」を探していた時に出会ったお爺さんは利根川武男さんといい、地元の長老で、もと地元の学校の校長先生だということでした。 この息子さんも現在の清里小学校の校長先生だそうです。 |
| ■さて、役場でも農協でも分からなかった「風の三郎社」の場所を、何故利根川さんが知っているのか聞きましたところ、こともなげに「わしが移したからだ」と言うではありませんか!? |
| ■「この地区は3つの部落からなりたっているが、三社参り の三社が2つの部落にかたまっていたため、各地区1つづつあったほうが平等だと考えて、いつの時代か、「風の三郎社」をわしらの地区に移した」 |
| 「ところがしばらくたって道路拡張のためにそれをまた移動しなければならなかった」 |
| 「そんなことが2度あって、最後に移したのがそうさなぁ・・、戦前だったか、戦後すぐだったか覚えてないが、わしら若い衆がみなで担いで移動させたもんだ」 |
| 「その頃はもう三社まいりをしなくなってたから、誰も風の三郎社がどこにあるのかなんて気にしなくなってたさ」 |
| ■・・というようなことをお話しくださいました。なるほど、だから誰も三郎社のありかを知らなかったのです。そして「風」についての様々な興味深い話もしてくださいました。 |
| ■このあたりは「風きりの里」と呼ばれて昔から「風きりの松」が大事にされていた。「風きり」とは防風林のことです。風きりの松を1本でも伐ろうものなら、昔は一族郎党皆打ち首だったそうです。そのくらい「風除け」は大事だった。ところが第二次世界大戦の時に、「松根油」を採るからといって、その松の大木がバッサリと切り倒され、根っこが引き抜かれたそうです。「松根油」とは文字通り、松の根っこから採れる油のことで、当時はそれで戦車や飛行機を動かそうとしたそうです。実際に使われたことはなかったそうですが・・。 |
| ■それはともかく、今でも赤松の「風きり」は一列に勢揃いし往時の名残をとどめ、静かな農村風景に彩を添えています。 |
| その松の列を北端まで辿ると「五幹の松」にぶつかります。この辺りの赤松の中の王です。今「北甲斐亭」というそば処があるところから歩いて10分ほどです。幹が5つに別れ、そのいずれもが一抱えもあるような見事さだったといいます。これ以北に赤松はないそうですが、視線を松の列に沿ってなを北へ向けると、晴れた日には林の梢越に八ケ岳の主峰の一つ「阿弥陀岳」の頭が見えます。この山が昔は「風の三朗岳」と呼ばれたそうです。 |
| ■「風の三朗岳」から吹き降ろす風があまりにも強烈なので「風きりの松」を植えた。それでも押さえきれないので「風の三郎社」を祀った、というのです。 |
| 風の強い日には家々の門には「風きりの鎌」といって、竹竿に草刈り鎌の柄を縛りつけて鎌の刃を風に向けたものを立てたそうです。魔よけ厄除けの意味もあるそうです。 |
| ■利根川さんも「風の又三郎」の舞台についてはかなりお調べのようで、こちらが質問しなくても「賢治さんはこの地域の風に関するこういう話しが好きだったようだ」といきなりおっしゃるのです!?!? |
| な、なに?なんてことを急におっしゃるのですか(^_^;) 本当ですか? |
| 「え〜っ、賢治さんは八ケ岳に、いや、この地に来たのですか??」と息せききって聞く私に |
| 「あ〜、良く来た。そのへんの牧場のおじさんたちとも友人のようだった」なんて言うではありませんか! |
| 「風の又三郎はこの辺の題材からとられたのではないだろうか」とさえ言うのです。 |
| ■ふ〜むむ、私が期待した答えをこうまで自信たっぷりに延べられてしまうと、俄かには信じがたく、逆に次の質問も思い浮かびません。いや〜、心臓が飛び出そうでした。 |
| ■しかしこんな面白い話はテ−プに録音しておくべきだと思い、次回テ−プを持ってまた同じ話しを伺っていいですかと聞いたところ快諾をくださったので、安心してその日はその場を辞しました。 |
| さて、帰り道私が一人車中で考えたこと。 |
| ・いくらなんでも賢治さんが清里の樫山に来たとは考えにくい。 |
| ・もしかしたら利根川さんは賢治と保阪嘉内をごちゃまぜに覚えている(或いは勘違いしている)のではないか。 |
| ・嘉内だったら韮崎の住人なので充分可能性は考えられる。 |
| ・嘉内が樫山地区の「風」にまつわる様々なことを聞き、それを賢治に伝えた。賢治はそれを面白がり、童話に仕立てた。しかし東北にも同じような「風の神様」の話があるので、初稿で「八ケ岳」が舞台だったものを本稿では「岩手」に書き換えた。 |
| ・だとすると、嘉内が清里に来た時期、そしてその話しを賢治に伝えた事実があるかどうかの確認が必要となる。これもまた大変だ。 |
| ・話しはそれて「銀河鉄道の夜」のことになりますが、 |
| ・この魅力的な題名は、あきらかに嘉内の影響だと言っていいでしょう。 |
| ・1910年、賢治と嘉内が13〜14歳だった年、ハレ−彗星が地球に大接近して世の中を騒然とさせます。、このとき嘉内は韮崎の自宅から南アルプスの上にかかるハレ−彗星をスケッチしています。そしてそのスケッチに「銀漢(銀河)ヲ 行ク彗星ハ 夜行列車ノ様ニニテ 遥カニ虚空ニ消エニケリ」と書き記しています。 |
| ・賢治と嘉内の関係を知る方々には、この嘉内の絵が賢治の目にふれないわけはないと容易に想像がつくはずです。そしてハレ−彗星の話しを、嘉内から何べんも聞かされ たことでしょう。嘉内の通った甲府中学には日本の星観察の元祖「野尻抱影」が英語教師としていました。嘉内は星についての知識や魅力などについてずいぶんと影響を与えられたと考えられます。その知識を持って賢治に接し、賢治は一層夜空を好きになり、いつしか「夜空ヲ行ク銀河鉄道」の話しが結晶として育っていったと想像されるのです。「銀河鉄道の夜」誕生の裏にはそういう背景があった に違いありません。 |
| ・ここでいまさら賢治と嘉内の関係に触れるつもりはありませんが、お互いの考えていることはどんなことでもあい伝わり、小さな趣味の一つ一つから人生の大事なものまでに影響を与えあっていたことは周知の事実です。童話の題材としての「銀河鉄道」もしかり、「又三郎」もしかり、と思うのです・・・。 |
| ※追記 2003・10・15 小淵沢で「宮沢賢治と保阪嘉内」と題する講演が行われました。講師は嘉内のご子息の保阪庸夫さん。その日の私の日記にちょこっと感想を書きましたのでお読みください |
| ■利根川さんとのそんなやりとりがあって、それからしばらくしてテ−プを持って伺うと、折悪しく体調を悪くして入院されているとのこと。 |
| あまり頻繁に伺って病状をお聞きするのもなんだか心苦しく、あれからお会いしておりません |
| つくづく残念な機会をのがしたものだと悔やんでいます。もっとあのときにネ堀りハ堀り伺って置けばよかったと。 |
| ■2003・11・20久しぶりにお訪ねすると、まだ入院中とのことでした。一日も早く前回されて、また楽しいお話をお聞かせくださることをお祈りいたします。 |
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