北杜市のスロ−ライフな歩き方

第10回 【長坂今昔物語 2006.5.1】

〜長坂駅周辺と狐火にまつわる昔語りを歩く〜

(歩行時間2時間)


JR中央線長坂駅の少し外れに

使われなくなって久しい赤錆びたレールが

不思議な空間が広がっている。そこには

時代から取り残されたように延びている。

   

今回は開駅当時のエピソ−ドと町の昔話を

歩いてみた。駅前の山が狐山と呼ばれた

 長坂にお住まいの繁宮翁にお伺いして、

 まだ森が深く、夜が暗かった頃の話である。


スタートは長坂駅。ゴールも長坂駅。
 狐面の参加者達が三々五々集まってきた。

 今回は長坂町教育委員会発行・「長坂のむかし話」に載った繁宮さんの「狐の提灯と長坂駅前通り」の話を元に歩くのだが、このコースを歩く時は「狐面をかぶる」と 面白い。八ケ岳歩こう会で何度も開催しているこのコースは人気で、皆狐面を被るのを楽しみに集まってくる 。
 今回のコース案内は、その時の写真も混ぜながらの報告である。

取材日は2006年4月21日、桜が満開だった。

「名水とオオムラサキの里」というキャッチフレーズ通り、長坂駅前には水車と国蝶オオムラサキのモニュメントが飾られている。駅隣にはコミュニティーホールも完成し、コンサートや講演会も頻繁に行われ、賑やかである。

この長坂駅が中央線開通から遅れること14年、郷土の人々の熱心な誘致運動によって開駅に至ったことを知る人は少ない。

       

当時日野春駅から小淵沢駅まで13.6キロの区間だった。間の「長坂」にはまだ駅が無かった。しかし単線の故に、対向列車が通り過ぎるのを駅で待つの は長すぎた。そこで鉄道院は、時間合理化の為、この区間に「信号場」を設け、そこですれ違いをさせようと考えた。その時、長坂上条区の人 達は「信号所だけでなく、停車場もつくりたい」と駅設置請願委員会を設置して運動を始めたのである。

しかし鉄道院側はほとんど不可能な条件を出してきた「駅の敷地全部と、工事費一部負担金1000円を用意せよ」

※ここから先、長坂上条の男達の、まるでプロジェクトX的な熱いドラマが展開されるのだが、その話はここでは割愛。長坂郷土資料館の澤谷さんが良く調べ上げ本にしているので、資料館に出向き、直接お話を伺うか、本をお読みになると良いでしょう。

大正七年、念願かなって長坂駅は誕生した。

開駅当時の長坂駅は単線でスイッチバックだった。 今でも残る「使われていない不思議な空間」はその名残だったのだ。 引込み線が撤去されずにまだ残っているというのはマニアにとって奇跡的で垂涎のことであるらしい。私はマニアではないが、確かにこの空間は異質である。

長坂のスイッチバックについてもっと詳しく知りたい方はコチラを。郷土資料館にはジオラマがある。

駅前の「長坂観光ホテル」前に開駅記念碑がひっそりと建っている。揮毫は鉄道院総裁・床次竹二郎となっている。

いまでこそ「町なか」にある記念碑だが、当時の写真を見ると記念碑の後ろはうっそうとした松林に覆われた小高い山である。いかにも狐や狢がいたように思われた。

レールの残る不思議な空間はこの記念碑の前の道を降りていく。

 
スイッチバック跡を見たら再び記念碑まで戻り、左手の坂を上に進む。

まもなく「おいでや」という看板のある十字路にでる。付近は大正七年の開駅後、200軒にもなんなんとする大商店街となっていた。

信玄が軍用道路として開発した「棒道」筋でもあったことから、ここは「十文字(じゅうもんじ)」と呼ばれて交通の要所となった。

開駅後、長坂の町には二つの繭取引場が開かれ、大正末期から昭和初期に商店街は大いに栄えたのである。

悪路を押して往来する荷馬車の休息所として荷馬車茶屋が繁盛した。「十文字屋」もその一つであった。「入沢館」という旅館も繁盛した。

その後病院となった入沢館の建物は現在町に寄贈され、地元住民の交流の場として使われている。それが「おいでや」だ。

 年間を通してギャラリーとして開放されているので、立ち寄ってみよう。入場無料である。

さらに進むと、小さなお稲荷様を見つけた。「正一位稲荷大明神」とあった。

私はてっきり長坂駅前がまだ「狐山」と呼ばれていた頃の由緒あるものかと思ったが、駅前発展の頃に集まった人々が、自分達の心のより所として祀ったそうだから、歴史はそう古くない。しかし境内の藤の木は見事である。樹齢100数十年。その脇には如何にも古そうな秋葉社の祠があった。

繁宮翁の話。

 「私の母は明治33年に町添で生まれ、82歳でなくなった。その母が私の子供の頃よく話してくれた母の子供の頃の話である。

 母が子供の頃は電灯もなく、夜は暗闇の生活であった。夜更けに母が私の祖母に手をひかれて便所に起こされた時のこと。

 近くのオチョンボリ山の方から赤い提灯が二つおりてきた。この夜更けに誰かと思う間にまた二つつき、一つ消え、さらにまた一つ消えると間もなく、二つ交互についたり、また一つついたり、というような灯のつき方をしながら降りてきた。

 祖母はもう知っていた。「またいつもの狐の提灯だ。どこへいくのか見ていよう」と言われるままに、母は祖母の手に固くしがみついてみていた。

 オチョンボリ山とは現在の町添信号の近くにある出光スタンド付近のことである。 ここは昔小高い山だった。稲荷を過ぎて進むとT字路にぶつかるので右折。再びT字路にぶつかるので左折。そこが町添の信号(T字路)である。信号を左折するとガソリンスタンド。その向いに下へ降りる坂道があるのでそこを降りる(右折する)と狐火は・・・

 だんだん降りてきて、最初山本数馬さんの家の玄関の方へいき、すぐ出てきて、母たちのいるところから100mくらい前方をたえず提灯をつけたり消したりしながら、近くの田圃を横切って、堂山の玄関の深い堀内七郎さんの家のあたりへ行って出てきた。

   私達はその通り歩いてみた。
   田圃も横切ってみた。

 あたりは静かな農村風景で住宅も昔のまま。  いつ狐火が出てもおかしくないたたずまいだ。

   
 狐は人を化かすが  狢は自分が化けるという。

 次はどこへ行くのか見ていると、道づたいに清光寺山の方へ提灯を点滅しながら遠ざかって行き、やがて林の中に消え去った。

正面の山が清光寺の林である。

私達も狐火を追って清光寺へ向かう。小高い丘の頂上に寺へ向かう急な坂道がある。ここを降りる(右折)。

このあたりの景色は抜群。金峰山、富士山、八ケ岳と四方大絶景である。これだけ開けた風景ではさすがに狐火ももう行くところがないのか、清光寺から先へ行った話は伝わっていない が

 近所の人たちと「明日は早く起きてあの山の木を伐ろう」と話していると、どこかで狢が聞いていて、当日まだ暗いうちに「お早うごいす。おっちゃん出かけんかい」と声をかけられ、あわてて起きると誰もいなくて、山の方から「ゴキン、ゴキン」と鋸の音がするので、遅れてはいけないと一生懸命駆けつけると、人影はなく、木の周りには狢の足跡がいっぱいあった、というような話は沢山伝わっているという。
 清光寺へは裏道から行くのでこんな道を  まるで狐になったような気分で歩くのである。

境内にあった金毘羅さんをお稲荷さんに見立てて、狐火を追うウオークはここで終了。

「今度は夜、提灯を持って歩きましょう」などという意見も出されて、なかなか楽しかったが、ここからまだまだ長坂の昔を訪ねる道は続く。

この清光寺の由緒がなかなか面白い。

前回も紹介した実質的な甲斐源氏の祖、黒源太清光の菩提寺で、祖父新羅三郎義光と共に祀られている。清光は黒源太とも呼ばれるが、説明文では「玄源太」と なっている。甲斐国志によれば「玄源太」が正しいようだ。

本来「源太」とは源氏の総領家の長男をいう。清光の父は甲斐の国に配流されてきたのであったため、総領家に遠慮して源太を玄太とした。そこで、源太と区別して「くろげんた」と呼ばれ たと甲斐国志は推理している。

   
又、ここは大正末期、地元出身の教育者「堀内柳南」が「夏期高原大学」を開いたことでも有名である。当時日本でも第一人者の仏教学者、哲学者達を呼び、行われた講義は連日超満員の人気であったと言う。

講師の一人として芥川龍之介も招かれた。その経緯も長坂町郷土資料館の本に詳しい。

境内にはその時残した龍之介の句碑が建立ある。「藤の花 軒端の苔の 老いにけり 龍之介」とあった。

   

境内にはシダレザクラとオオシマザクラの巨木があり、時期を違えて競い咲く姿が美しい。

高麗門 切妻造の総門は1801年の造立。昭和27年と平成5年に改築されている。

町の指定文化財である。見所の多い寺だ。

   

総門からは、遥か遠く八ケ岳の最高峰・赤岳の勇姿も望める(現在では木々の背が高くなり、赤岳の頭しか望めない。写真は総門より少し赤岳に近づいた所から撮影した)。

ここから道は再び駅の方に向かう。

「清光寺坂上」の信号を直進し、すぐに北沢バルブの正門に沿って左折する。

そこは「牛池」である。

   

「長坂湖」と呼ばれて、周囲に散歩道も出来、市民の憩いの場となった「牛池」にも、興味深い伝説が伝わっている。

昔々神様がこのあたりの稲の出来具合の見回りのため、牛に乗ってやってきた。

稲作は大変すばらしかったので、神様は周囲の村人を招いて酒盛りをした。

   

酒盛りを終えて気分良く帰って行く途中、牛は豆畑のつるに絡まってしまった。驚いて暴れる牛に神様は振り落とされ、天上に帰れなくなった。そこで住み着いて開いたのが今の「穂見神社」であるということだ。

不思議なことに、近年、近くの現場から酒器を含む大量の土器が発掘された。6000年〜4000年前の、縄文中期の遺跡で、規模の大きさから県内最大級の縄文遺跡であると判明した。

 そして、その酒器の豊富さから「神様がここで酒盛りをした」という伝説が実証された形となり、遺跡は「酒呑場遺跡」と名づけられ、現在も発掘中である。伝説 に相対する遺跡が本当に見つかるなんて、まるでシュリーマンのトロイ発掘ではないか!? 長坂町郷土資料館ではかつて「酒呑場遺跡展」を開催した。興味ある方は学芸員に直接聞きに行くとよい。
 

 ところで、牛に振り落とされた神様は胡麻の切り株で怪我をしてしまった。この故事により、この辺りではいまでも「胡麻」を栽培し ないそうである。又、狂ったように走り始めた牛はこの池にはまり、死んで天上に帰っていった。それ以来この池を牛池というのだそうである。

 

牛池は昭和30年、山梨日日新聞社主催の県民投票で「観光山梨新十勝」に選ばれている。

当時の写真を見るとボートが何艘も浮かび、湖畔は大変賑わっていたようだ。

昭和30年代後半までは湖水もしっかり凍って、スケート大会も盛んだった。ここから県大会、国体、そしてオリンピック出場までするような選手が随分出たと言うことである。

 湖畔の遊歩道を巡って、長坂町商店街に出る。残念ながら現代の商店街はシャッターの下りている店が多く、活況を呈しているとは言い難い。インター付近に大型ショッピングセンターが出来て、駅周辺は空洞化しているという、日本全国お馴染みの現象がここ長坂でも起きている。
 近年、残された商店の店主達が知恵を出しあい、商店街PRの小雑誌も出し、店内の一角に地元芸術家達の作品を展示するミニ・ギャラリーという催しも行い、又、「おいでや」で様々なイベントを試みるなど、商店街再生の動きが活発だ。
 
 私達も「狐火ウオーク」のようなウオークを通して地域のPRや活性化に一役買いたいと願っている。繁宮翁のご都合が良いときにはこのコースを歩いた後、「おいでや」にお越しいただいて、昔話を皆で聴く会を開く。

 翁はなかなか進取の気風に富んだ方で、母から聞いた狐火の話を科学的に(?)解説したりする。子供の頃何度も聞いた話だがどうも府に落ちないことがあったという。そこである時繁宮少年はあることを思いついた。

繁宮翁の話

 狐という動物は夜行性のはずなのに、夜歩く時提灯を利用するとはおかしいじゃないかと、子供心に感じていた。ふと思いついて、ネコをコタツの中で逆撫でしてみたら、パチパチと静電気が光るではないか。これだ!、狐火というのは狐の尻尾が藪にこすれて光るのである。
 なんていうお話が飛び出す。大変楽しい会である。

駅前に戻って、水車の前にて記念撮影。


 
 今回のコースは、写真を見て分かる人には分かるが、そうでない人には道順がさっぱり分からないだろうと思います。繁宮翁の話には今も現存する個人宅名も出てくる ので、あまり詳しく説明するのは好ましくないと思ったからであり、お許しを願います。
 しかし、読者の方々の一人でも、今回のコースに興味を覚えた方がいらっしゃれば、いつでもお問合せ下さい。長坂の今昔を辿って歩く楽しいコースをお教えします。日程さえ合えば、ご案内も致します。
 狐火の実際に出た道筋や、酒呑場遺跡の伝説を辿って歩く楽しさはもちろんのこと、再生しようと頑張っている商店街をたまにはゆっくり歩いてみるのもいいものです。
 何も長坂商店街に限ったことではありません。今度の休みには、貴方の街の商店街をどうぞゆっくり歩いてみて下さい。そこにはきっと小さな祠やお地蔵様等がひっそりと立ってい ます。その一つ一つに言い伝えや物語があるはずです。お店の人に尋ねながら歩いてみれば、きっと沢山の発見があって、楽しい感動さえ覚えることでしょう。

(参考資料)
長坂町制施行45周年記念誌 「エピソード」 長坂町発行
「長坂駅の本」  長坂町郷土資料館発行
「長坂のむかし話」  長坂町教育委員会発行
「伝えたい残したい 長坂の話」 長坂町教育委員会発行
 
(コースのお問合せ)                                   八ケ岳歩こう会( 電話0551.32.5888)