北杜市のスロ−ライフな歩き方

第12回 【山本勘助と高根町蔵原 2006.7.1】

〜風林火山とその時代をめぐって〜

(歩行時間2時間00分)


●スタート地点 クラインガルテン

●棒道

●鎧堂観音

●本日のコース概略

●山本勘助の墓


 今回は来年のNHK大河ドラマに決まった「風林火山」の主人公「山本勘助」ゆかりの地を歩きます。といっても、勘助は謎の人物で、その実在さえ疑われています。出自も経歴も謎だらけなので「ゆかりの地」と言っても歴史の闇に紛れて、はっきりと致しません。
 今回歩いたのは、あくまで「歴史ロマン」を楽しみながら往時に思いを馳せようという試みに過ぎず、正確な史実に基づいている訳ではないことをあらかじめお断りしておきます。
 ただ、高根町の古い文献を調べれば調べるほど、山本勘助と高根町の関係が濃くなってくるのは否めません。果たして勘助は実在したのか、そして高根町蔵原となんらかの関係があるのか・・・。皆様と共にひととき歴史ロマンの旅を楽しみましょう。

 ご案内はまず、今回歩くエリア地図から。図の中心は「高根町蔵原」です
 赤地白抜きの楕円で囲まれた3つの箇所を巡って、歩きます。ほぼ4キロです。

国道141号線(地図上ほぼ真ん中の赤い縦線)を須玉方面から北上し「西川橋西詰」の信号を左折。大きくS字状にうねる急坂を上っていくとすぐに「高根クラインガルデン」という案内板が見えます。そこからあっという間 に、今日のスタート地点「あつみ園」に到着です。ここは区画契約方式の市民農園(クラインガルテン)です。

契約者は各自のスタイルで農業体験を楽しむことができ ますが、外来者(非契約者)がブラリと立ち寄っても見るべきものはありません。

 ※あつみ園とは、ここが熱見村と呼ばれていたことによります。

 食堂も土産屋もないのでちょっとつまらない。

広い駐車場に車を停めて歩き始めましょう 

さっそく本日のメイン「山本勘助の墓」に向かいます。

夕焼け橋と名づけられた橋をくぐって北に向かう。正面には八ケ岳が見える(写真は南向きなので注意)。

ほんの数百メートルで山本さん宅前に到着。勘助の子孫のお家です。

左三つ巴の紋が蔵に見えました。この家の奥に墓があるのです。

この紋は神紋として、神社、八幡宮等に見える紋です。特に頼朝の信仰厚い八幡宮は、武芸の神、弓の神として祀られており、その故からも三つ巴は武芸のシンボルともされてい ます。

戦略に長けた山本勘助の家紋でもあるとすれば、ふさわしいといえるのではないでしょうか。

4年前に訪れた時はご主人の輝彦さんが親切丁寧にご案内してくださったが、残念なことに3年前他界された。

奥様が一人で墓を守っているがどうしても目が届かず、ある時身勝手な見学者にひどい目にあったと悲しんでおられた。墓の拓本を取られたのだという。苔むして貫禄のあった墓が、すっかり苔をむしられて丸裸にされて拓本を取られてしまったというのです。

それでも入場禁止にしないという。ここは自分の庭なのだ、私だったら腹が立つ。入場禁止しないまでも、あらかじめ予約した人に限るなりなんなりの方法を取るだろ う。

しかし奥様は心が広い。訪問したいという人がいる以上見せてやらねばと「芳名帳」を置いて、ご自分は畑仕事に出かけてしまう。「私がいなくてもどうぞ」という意思表示なのだ。

見学者は「お天道様に見られている」というつもりで入場しなければならない(少し古いかな)。

 卵型の塔で「天徳院武山道鬼居士 永禄四歳九月十日」と銘打たれている。
 永禄四歳(1561年)九月十日とは、第四回川中島合戦で勘助が戦死したとされる日である。
 道鬼は勘助の号。1551年武田晴信が剃髪して信玄と号すると同時に、武田七将も揃って剃髪入道した。
 山本家には江戸初期を下らないと見られる道鬼の位牌や、享保十八年(1733年)に調成した仏壇もある(筆者も4年前に見ている)。それらを勘案するとこの墓は勘助のものに間違いないと上野晴朗氏は論じている( 新人物往来社刊「山本勘助」新装版 平成18年6月)。上野氏はさらにこの地が、勘助の在所の地であり、主要な知行地であったと推定している。
 しかし早稲田大学図書館員の柴辻俊六氏は「この墓は、供養塔の一つとも考えられ、ここを知行地とするには根拠がない」(山本勘助の謎と伝説)という印象を述べている。

 

 なかなか楽しくなってきましたが、先に進みましょう。

 

山本家を辞してクラインガルデンの方向へ戻り、クラインガルデンを通りすぎてなを歩きます。1キロも歩かないうちにこんな四つ角が出てきます。よく見ると・・・

左の角にこんな看板が立っていました。

「信玄公戦勝祈願 鎧堂観音入口」

後ろの白い畑は蕎麦の花のようです。蕎麦は育成期間が短いので、夏蕎麦と秋蕎麦の二期作がさかんですが、やはり全てにおいて秋蕎麦の方が優れているようですね。

ここらは蕎麦の名産地でもあります。夏と秋の違いをお試し下さい。

さて、看板どおり曲がると、こんな風景が。

画面中央の十字路を直進して、奥に見える道を左の方に上がっていきます。

すると、こんな風な分かれ道に出くわしますので、右の小路を上がっていきます。

「鎧堂観音」です。 甲斐源氏の祖新羅三郎義光が、その兄八幡太郎義家の奥州征伐(後三年の役)を助けて勝って帰った後、甲斐の国の守となり、戦の間中常に肌身離さず持っていた十一面観音をここに祀った。又、愛用していた鎧も納めた。これが蔵原の「鎧堂観音」のいわれです。

ちなみに、この時の奥州の戦では反逆者「安倍一族」を清原氏(後の藤原三代に繋がる家系)と組んで滅ぼしました。このことが縁で、100年後義経が藤原氏を頼って奥州へ赴くことになるのです。

信玄の時代となり、周辺は戦略上重要な地点となって、軍用道路「棒道」もつくられた。

信玄は戦の神新羅三郎義光にあやかって、戦の前は必ず戦勝祈願に立ち寄ったという。

さて問題です、何故ここは「信玄の時代になると戦略上重要な地点」となっていくのでしょうか。そんなことを考えながら次に進みましょう。

おや、その前に・・・

境内には首の無い石仏があちこちにありました・・・。
 こういう石仏はあちこちでみかけますが、傷口をよく見るとそのほとんどがかなり古いことが分かります。つまり最近のイタズラではないことが分かります。明治の廃仏毀釈によるものだと考えていいでしょう。首が見つかったものはセメントなどで補修されています。明治の蛮行「廃仏毀釈」でどれほどの貴重な歴史的資料が破壊され国外に持ち出されたか分かりません。

鎧堂観音を後にして、さらに歩くと1キロ行かないうちに、棒道の入り口に到着します。

棒道とは信玄の作った(と言われる)軍用道路です。信濃攻略の時に、すぐに現地へ到達できるように、棒のように真っ直ぐな道を作ったので後世「棒道」と呼ばれるようになりました。

特に「若神子」(西川橋西詰南側)からは上の棒道、中の棒道、下の棒道と3本作られて、この辺りが戦略的に重要な地点であることが分かります。

信玄軍は一朝有事の折、躑躅が崎の館からまっすぐ若神子あたりまで来て、ここから武具馬具食料を揃えて、信濃に向かったといいます。

躑躅が崎から鎧兜で進軍するよりは余ほど素早い移動が可能だったと思います。

では、何故そう出来たのか。

ここが昔からの「牧」であったことと、昔から豊かな地で、都に送る穀物を納める「屯倉」があったことなどが考えられます。

「牧」とは今で言う牧場のことです。ここらあたり一体は「甲斐の三牧」と呼ばれて、平安時代から官営牧場「御牧」が三つありました。

韮崎あたりに「穂坂」、武川あたりに「牧の(真衣野)原」、淺川村・念場が原あたりに「柏崎」の牧がありました。盛んな頃は「念場千軒」といって、随分賑わったといいます。

三牧、それぞれに優秀な馬を朝廷に献上していました。なかでも聖徳太子が使用した「甲斐の黒駒」は有名です。

 武田軍の強さの秘密「優秀な騎馬軍」は、こういう背景から誕生したといって良いでしょう。

一方、「蔵原」という地名は「屯倉」から来ていると伝わっています。それほど昔から豊かな土地だったのです。

とすれば信玄としてはここを勘助に知行地として任せ、武具馬具食料を揃えさせるに十分な理由があったことでしょう。

柴辻俊六氏が「ここを知行地とするには根拠がない」と述べていましたが、きっと地元の資料を調べなかったのではないでしょうか。

 私が今書いたことは、諏訪神社宮司で郷土史家の山本千杉氏の本「甲斐国志にみる高根町」「蔵原の昔と今」「高根のむかし話」などに詳しく出ています。
 
 

鎧堂観音と馬との関わりは戦前まで続いたそうで、二月の午の日のお祭りには遠く信州からも馬をひいて参詣に来たそうです。

馬の無事と繁栄を祈って絵馬を買い、絵馬を奉納したといいます。

馬市も立ったということです。

 又、時間があれば、蔵原と言われるこの地域をぶらぶら歩いてみてください。立派な蔵を持った屋敷が多く、「屯倉」があったという平安時代からの繁栄を彷彿とさせます。

信濃攻略に命を注いだ信玄にとって、躑躅が崎から向かう途中で、中継地点としてこれほど便利な地はなかったことでしょう。馬もいて穀物もある。最重要地点として勘助に託したとしても頷けるのではないでしょうか・・・。

さて棒道は1キロほどで終わってしまった。いや、終わらずにまっすぐ八ケ岳の麓に続いている。ここから信濃攻略の信玄の夢は始まるのだ。が、舗装道路になってしまった。気持の良い昔ながらの「棒道」らしい土道はここまでだ。そろそろ帰るとしましょう。

 棒道出口から東を見れば

 地域のシンボル、斑山(まんどりやま)

 茅が岳が手に取るように望める

 勘助の手配により蔵原の地で陣揃えした信玄軍が、鎧堂観音で戦勝祈願をした後、棒道を一路信濃攻略に駆け上がる。そんな図を想像して山々を眺めていると、遠くで鬨の声がこだましたような気がしました。遥かなり戦国ロマン、と一人悦にいって歩いたのでした。
【勘助 墓談義】
 おそらくこの風景は昔から変わらないでしょう・・・。豊かな知行地をしっかり守って武田家の礎を築いてくれた勘助を、信玄(又は家臣、親族の誰か)が、ここに墓を作ったとしても、なんの不思議もないと、私には思えます。
 勘助の墓とされるものは日本中に幾つかあります。例えば豊川市の長谷寺の「勘助」の墓は、勘助の死を知った旧知の和尚が悲嘆にたえず、遺髪を埋めて墓を建立した、とあります。
 又、川中島古戦場にある墓は、江戸時代中期になって勘助の壮烈な戦死に感銘を受けた松代藩家老の建立だそうです。又、富士市「医王寺」の墓は勘助とその祖父とされる二基の石塔があるが、勘助の銘はありません。さらに、供養塔が韮崎の宗泉院にあるということですが、どちらにしても、その全てに「骨」がありません。ここ蔵原にも骨はなさそうですが(未確認)、仏壇と位牌があるのはここだけでしょう。
 勘助が実在の人物かどうかさえはっきりしないのに「墓」の真贋を論じても仕方がないのですが、状況証拠はどうしてもこここそ勘助の「終の棲家」だと言っているような気が してなりません。
 もっとも、墓が幾つかあった場合、どれが本当の墓か、決めなくてはいけないものなのでしょうか?そこのところは、私にはよく分かりません。

二つの山の中央に、遠く高根クラインガルデンの建物が見える。この写真の真ん中に小さく見える緑色の壁の建物がそれです。

もうコースは帰り道に向かっています。ゴールが見えているので安心です。

出来たばかりの新道を歩きます。ウオーキングには不向きな文明の道。こんなのが縦横に出来ている。本当に必要な道なのだろうか?

信玄の棒道はもはや不要になっているが、いまや「官製の棒道」が田舎の野山を削ってあちこちに通じている。そこにロマンのあるはずも無い。語るべき物語の一つもない道の行く末は、一体どこへ続くのだろうか。

いよいよ平成の勘助に出てもらわなければならない。

 と、最後は舗装道路だらけの道につい不満を漏らしてしまったが、勘助を偲び、往時に思いを馳せて歩くには十分な空の青さと山の青さだ。 視界はぐるりと広く、どこからでも気持は往時に繋がる。 まだまだ谷あいや森かげから風林火山の旗がなびいてきそうな風景が残る蔵原は、歩いていて気持がよい。
 是非大勢の皆様に「歩きに」来て欲しいと願います。当たり前のことですが「昔はみんな歩いてた」。信玄を、勘助を、風林火山を感じたければ、自分の足で、ゆかりの地を歩いて「なりきる」ことが大切だと感じます。 ロケが始まり、放映が開始されても、ただロケ地を車で辿って移動するだけなら、勘助たちが活躍して少しでも良い時代を築こうとした心意気に触れることは出来ません。彼らが踏んだ地面を踏んで、彼らが吸った空気を吸って、彼らが眺めた景色を眺めて、彼らが仰いだ空を仰ぐ。そこにこそ「風林火山」の真髄がひそんでい るのです。

(参考資料)
改訂 高根のむかし話 山本千杉
山本勘助の基礎知識・全戦闘 野澤公次郎 大向義明
争点 山本勘助の謎と伝説 柴辻俊六
山本勘助 上野晴朗
(コースのお問合せ)

八ケ岳歩こう会 0551-32-5888