小海線大カーブの謎

2006年8月5日 記


■小海線は始発駅小淵沢を出ると中央線諏訪方面に走り始めるが、すぐにUターンして甲府方面に戻るような軌跡を描きだす。俗に「大カーブ」と呼ばれる半円形の軌道は小海線名物だ。その円弧の中心は鉄道カメラフアンの間では絶好の撮影ポイントとしてつとに有名である。常に八ヶ岳をバックに走る小海線が、 ここでは雄大な南アルプスをバックに走る場面であるからだ。
■この地図を見ていただきたい。JR中央本線とJR小海線が細い黒線で記されている。

小淵沢駅を出た小海線の半円形は実に顕著だ。

■では一体何故わざわざこのようなカーブを描かなければならなかったのか・・・・?今回はその謎を追う旅である。

■まず、如何にこの大カーブが鉄道フアンの間で有名か、ネット上で確認してみよう。「小海線カーブ」で検索すると713件、「小海線 大カーブ」で検索すると1010件、小淵沢 カーブ」で検索すると15.000件、「小淵沢 大曲」で検索すると24.800件出てきます。ここはもともと「大曲(おおまがり)」という名前で呼ばれていました。
■検索したものから幾つか失礼して紹介しましょう
1) これなんかかなり年代モノです。
2) いやあ、いい写真ですね〜
3) キリがないのでやめときます

■ではいよいよ謎解きです。
 このカーブの謎については現在2つの推論がなされております。
1つ目は、政治的な駆け引きの末こうなった。という説
2つ目は、急勾配を上るのには、いったん迂回をせざるを得なかった、という説。
結論めいたことを先に書きますと、この2つの説はどうもはっきりと確認されておりません。
長坂町郷土資料館の澤谷学芸員が仔細に調査した結果、どちらの説にも有力な資料が出てこなかったというのです(2006年 7月現在)
■ウキペディアにはこう記されております。
小淵沢〜甲斐小泉間には急カーブがあるが、これは小海線計画当時の鉄道大臣小川平吉富士見町出身ということもあり、富士見駅を起点とする予定であったところを、工事費用などの点から小淵沢駅起点に変更したために生じたものである。
しかし残念ながらこの記述は間違いである。
 起点駅は最初から小淵沢と決まっていた(大正十一年鉄道省決定)。 これには小淵沢出身の県議宮沢三雄氏の力によるところが大きいとされている。小海線関係年表を見ると1度もどこにも「富士見駅」という文字は出てこない。
 確かに小川平吉は富士見町出身だが、当時平吉は「小海〜小淵沢間鉄道期成同盟会」という地元の民間運動を支持する中央の代議士だったのである。
 大正十二年には小淵沢〜甲斐小泉間の工事が早々と着工されている。しかし、翌十三年に、何故か工事が中止されたのだ・・・。昭和三年になって工事が再開されたが、この間の事情が曖昧なので、色々な憶測が可能となる。
 昭和二年には平吉が鉄道大臣となっている所から憶測(邪推?)すると、この間に平吉の考えが揺らいで、地元富士見に誘致しようとしたことは考えられる。
 しかし、青写真の上だけならまだしも、後に軌道を半円形にネジ曲げなければならない程の工事を実際に勝手に着工していたとは考えられない。
 それゆえ1つ目の説「政治的な駆け引き」は無かったと思われるのである。いや正確に言えば「駆け引き」はあっただろう。もともと佐久鉄道と呼ばれて「小諸〜小海間」を走っていたこの鉄道には、日本海〜太平洋を結ぶ「本州横断鉄道構想」があった。甲府と結ぶアイデアや、身延線と結んで清水港まで達するアイデアもあったというから、小淵沢にするか富士見にするかどころではない。八ヶ岳周辺住民としては甲府や清水に持っていかれぬよう、小淵沢も富士見も一致して運動しなければならぬ状況であった。
 ところが折からの大不況(大正九年東京株式大暴落)で、小海から中央線への工事がいったん中断されてしまった。工事再開を訴えて結成された「小海〜小淵沢間鉄道期成同盟会」を平吉は中央政界で受けて応援したのである。その後、平吉が富士見に肩入れをしたことは充分に考えられるが、実際に工事が進行中のところで「駆け引き」があったとはとても考えにくい。
 まして小泉駅から小淵沢に向っていくのを富士見駅の方に引っ張って行ったというならまだしも、小泉駅〜富士見駅間の工事が何故か小淵沢駅に、という変更は時系列的事実からみてもあり得ないことである。

■では、2つ目の「急勾配迂回説」はどうか。
 確かに上の地図上青い線で書いてみた「甲斐小泉〜小淵沢間」を直線距離で結ぶと、勾配がきつくなり、ある試算では1000分の38.1で、小海線の鉄道内規を超えてしまう。
 従って、この大カーブは勾配をゆるやかにするための迂回であるという説が浮上するのだが、実はこれもおかしい。甲斐小泉駅が現在の位置にあるからそうなのであって、仮に、甲斐小泉の駅をもう少し標高の下の方に設置すると考えれば勾配の問題はたちまち解決する。

 赤線で小海線をひいてみた。現在の甲斐小泉駅より標高約150メートル下に駅を持ってくるのである。この調子で甲斐大泉まで延長していくと、無理の無い勾配で鉄道建設が可能である。
 事実、甲斐小泉駅を現在の「小泉小学校」付近に設置し、レールを上図赤線の位置に敷くという小海線の初期の青写真が、長坂町郷土資料館に現存している!
■勾配が問題だったのなら、初期の設計図どおり工事を行えば何の問題も無かったはずである。では何故、この通り敷かれなかったか・・・・。
■ここからが本題だ。
 小淵沢の古老(今は亡き某会社社長・その会社自体はは今も上図赤線上に現存する)に小淵沢えほん村松村館長が聞いた話は下記のような奇怪な物語である。
 「小海線は最初ワシの会社のすぐ上を通って今の小泉小学校のあたりに駅が出来るという話だった。事実、試作軌道か保線軌道かしらぬが、ともかく工事が始まっていた。しかし、しばらくすると何故か工事は中止され、いつの間にか線路は違うところを通るようになってしまった。
 その理由だが、どうも工事区間中にあった大きな岩が邪魔をしていたようだった。その大岩はとても足場の悪いところにあり当時の技術ではなかなか撤去が困難だった。しかしそいつをどけないと工事は進まない。小さな渓谷或いは谷、と呼んでいい地形に鎮座していたので、レールは橋桁を作るか、この谷を埋めてしまうか、或いはなんとかしてこの大岩をどけるかしないと敷けなかった。だが、この大岩に対してなんらかの作業を仕掛けると、必ず工夫に怪我人が出た。
 発破をかけようとしても、テコで動かそうとしても、穴を掘って埋めてしまおうとしても、大岩がそのたびにゴロゴロ鳴って、大雨を降らすか、山津波を呼ぶか、地震をおこすかして、工事の邪魔をし、おまけに工夫に怪我人までだしてしまう始末であった。
 ついに工夫たちが気味悪がり工事続行が不可能になってしまった。そこでこの大岩の「わるさ」を封じるためお祈りをし、岩の頭にくさびを打って、鎮めたということだ。が、工事再開はついにならず、いつの間にか、この区間の設計は変更になってしまった」
 
 以上のような内容である。
 私はこの話を松村さんから聞きどうしてもその大岩を見たくなった。松村さんに是非にと同行案内をお願いした。もう4,5年前の話である。その時の松村さんの様子は鬼気迫るものがあった。
 実は松村さんも、古老から話は聞いたものの、実際にその大岩を見ていないのである。見ていないものを私が案内してくれと言ったものだから、困っていた。どこにあるのか分からないのだ。が、ちょうどその頃、松村さんはその大岩に呼び出される夢を見たというのである。「オレを助けてくれ、俺を解放してくれ」と盛んにその大岩が訴えているのだという。
 ある日、意を決した松村さんは、古老からの話を仔細に思い出し、それとおぼしき方向に、人跡未踏の森の中に入っていった。もちろん私は後からついて行った。
 松村さんは人も知るある種の能力者である。道も無い森の中を、鋭いカンだけで歩いていくのだ。時に立ち止まって両手を広げ、なにやら感じているようなそぶりを見せる。大岩から発せられている気を感じてその方向に歩いていくのである。そんなことを2,3度やって、「あ、あそこだ」と突然指差した。その方向を見ると、なるほど大きな岩が森の中に鎮座している。「お〜あれか、すごいね、」と言って駆け寄ろうとする私を松村さんは「ダメッ」と大声で制した。
 大岩がものすごい気を発しており、誰も近づけないようにしているのだとか。「行ったら危険よ」と真剣である。なんとか近寄りたい私は無責任にも「なんとかしてよ」と松村さんに頼んだ。「じゃ、聞いてみるわ」と言ってまたもや両手をかざしてなにやら岩と対話をしている様子。「ここまでならいいわよ」といって、だんだん岩に近づいていく。大岩の結界を両手で狭めていっているようだ。ついに大岩の 真下まできた。「触っていいかな」と聞くと、「待って、何か岩が言ってるわ・・・、ん? 私の頭に刺さっているものを外してくれだって 」、というので、え?なんのこと?と振り仰げば、なんとその大岩の頂上には確かに細長い石が突き刺さっているではないか! これを外してくれ、っと言っているのだ。
 「これ外すとどうなるの?」と聞く私。「ダメ、外せない。また暴れてワルサするから」と松村さん。しかし気になるのは突き刺さっている石だ、石には何か書いてあるのではないか、なんと書いてあるのだろう。「ね、岩に上って 良いかどうか聞いて」とまたもうや図々しくお願いした。「殺されるわよ」と脅かしながらも松村さんは大岩になんとか聞いてくれた。おどろくべきことに「上ってもよろしい」というご宣託がでた。松村さんいわく私には邪気がなく罪も無く、全くの遊び心であるから許された、というのである。ふ〜む・・・。まあその通りなので喜ぶことにした。
 で岩によじ登って突き刺さっている細長い四角い石を見たところ、「岩」という字に「ノ」が入っていた。「岩」という字の中にある「口」の上に小さく「ノ」という記号が付いているのであった。
 後で調べるとこれは「楔」(くさび)という意味で、まさに大岩の力を封印するためのものだったのである。
 なるほど、これで古老のいう通りのことがかつて起こっていたという確信がもてた。小海線は確かにこの大岩の為に迂回を余儀なくさせられたのだ。
 上図赤線の基本構想があったにもかかわらず、その通り行われなかったという最大の理由は「大岩のたたり」だったのだ。それ以外考えようがない。最も簡単なルートを迂回してわざわざ遠回りしている。この理由は大岩の他に説明がつかない。
 
 後日譚
 さて、先日地元テレビ局の依頼でこの話を取上げることになった。収録前に再度この大岩を訪問しておこうと、松村さんと再び森の中を彷徨って訪ねたのだが、二人して違和感があった。
 松村さんは、全然「岩に霊気」が感じられない、というのだった。以前とちがって、少しも怖いところのない普通の「大岩」になりさがっているとのこと。
 私は私で、直感的に「この岩ではない」と感じた。岩の頭に刺さっている石がまるで違うのである。第一に突き刺さっている石はこんな大きくなかった。第二に(これが不思議なのだが)石には「くさび」という字が書かれてあったのだが、その文字が見当たらないのだ!? そのかわり駒頭岩」だとか「安政五年」だとかその他色々な文字が彫ってあった。そんな文字は最初見たときは間違いなくなかった。
 いや〜、謎はますます深まっていくばかりである。
      ところで、その大岩を紹介しておこう 2006年8月4日に訪ねた時のものである。

      何故か前回訪ねたときの印象とまるで違っていた。頂上に建っている石が
      まるで別物のように思える。・・・何故だろうか???
      それに、なんだか岩の表面に斜めにゆがんだ人面が見て取れませんか?
 

■この稿の中盤「ここからが本題だ」の上の部分(前半)の考証は、長坂町郷土資料館澤谷さんが詳しい。澤谷さんは小海線についての講演もこなすほど研究されており、大カーブの謎についても詳しく話してくれる。ほぼ私が前半部分に書いた通りのご意見である。つまり大カーブに対する的確な説明は今のところ資料不足で誰にも分からない、というのが本当のところだ。 (それでも、一応澤谷さんは、今のところ勾配迂回説をとっている)
 しかし、後半部分で私が紹介した「大岩のワルサ」については、とっぴな話だけに資料には載せられなかったので、誰にも知られず、現在に至るというのが私の見解。 オーバーに言うなら「消された史実」である。これを復権させるにはもっと大勢の証言が必要だ。
 往時を知る古老がだんだんといなくなって行く今、早急な聞き込み調査がされるべきだと私は考えている。

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