役の小角

八ヶ岳不思議発見・野の石仏シリ−ズ

山梨県北杜市大泉町

報告2005年3月18日


まずは二つの像をじっくりとご覧下さい

■上の像は山梨県北杜市大泉町の某山中に人知れず座っている石仏です。 ■上の像は吉野・大峰の金峰山寺蔵王堂に鎮座する修験道の開祖「役の小角」の姿です。
■右手には野の花が手向けられておりますが、それも枯れて、なんとなく心細そうな顔。 ■鬼も自在に操り、空も飛んだという法力の持ち主。像は威厳に満ちています。

じっくり見ていると、どうやら野の石仏は役の小角にそっくりだと気づきます。

頭巾に僧衣、右手に杖 左手に経典、足は高下駄、顎鬚らしきものも確認できます。


■この石仏は大泉山中の私有地にあるために、残念ながら正確な場所は公にすることは出来ません。今回地主のAさんに特別にお断りをして、入らせて頂きました。この石仏はAさんの話によると、役の小角の像であるということです。どこからか移したのではなく、昔からここにあり、昔から役の小角だと伝わ れてきたそうです。今は道も無き藪山の一隅にひっそりとありますが、昔はここでお祭りやら、集会があったのではないかと伝います。Aさんも子供の頃この辺でよく遊んだそうです。
■ところで役の小角とは一体誰でしょうか?
※下記はGoogl検索「役小角」によります
一般に役小角(えんのおづの、おづぬ、しょうかく)と呼ばれ、他に役優婆塞(えんのうばそく)と呼ばれる。
 ただし、「優婆塞」は寺に入らず仏道を修行する男子の呼称。
 『源平盛衰記』などによれば本名は賀茂役君小角(かものえのきみおづの)で、一応神道の名家賀茂一族の分家にあたる。(ただし父親の名字は高賀茂とも伝わる)
 奈良時代に葛城山の麓に生まれ、古代から続く山岳信仰の一部を引き継ぎつつ、仏教とその一流派である大乗仏教を加えて、修験道と密教の基を興した。
 一説には634年に生まれたとされているが、伝説の色が濃く、やや信頼性が薄い。
 前鬼と後鬼という夫婦の鬼を使役したと言われることから、邪法を使う者として名をおとしめられることもある。
 ただしこの前鬼と後鬼だが、能の『鞍馬天狗』などでは大峰山の天狗だとされている。そこから考えると、もともと彼らは役行者と同じ山岳修験者で、行者に付き従った人間だったのだろう。他でも、鬼のような姿をしていたがれっきとした人間だったといわれている。
 行者は『今昔物語』などでは葛城山にまつられる国津神である一言主(ひとことぬし)を使役するなど、多くの不可思議な逸話を残すため、宗教家ではなく呪術者や妖術使いのようにもいわれる。
 山岳信仰はクニトコタチやオオナムチなどを霊山にまつることがあり、実際葛城山では『古事記』の雄略記にも書かれる一言主が古くから信仰されており、一応国津神系の神道だが、彼はその信仰に大乗仏教を加えた。
 神道派や純粋な仏教派には、異端視されたのではないかと思われる。
 『続日本紀』などには文武3年(西暦699年)、他の呪術師の訴えによって、伊豆に流刑に処されたと記述されている。
 また『日本霊異記』では、小角の所行に怒った一言主が、人に憑いて現れ、「行者は国を傾けようと謀っている」と託宣したことが流刑の原因とされている。
 数年後、罪を許され刑を解かれたようだが、そのあたりはかなり曖昧で、正確には良くわからない。
 

 霊峰葛木山の神官加茂家に生誕する。幼少よりその天才的な才能を発揮し、若くして山岳修行に入る。神の導きで飛鳥元興寺の高僧より「孔雀明王経」の教えを受け、その後密教の奥義を修めること30年、不思議の術を顕す超人として人々の前に姿を見せる。
 小角は「鬼神を使役し、様々な奇跡をなした」とされ、前鬼後鬼2体の鬼神(護法)を従えた姿で表される。様々な厄を一切除き、天候すら操る小角は畏敬され、彼のまわりに宗教団体が形成されていく。それが修験道の母体組織となる。

■一言で言うと「修験道の開祖」なのですが、そんな小角が、一体なんで八ヶ岳の里山に?と思うのであります。まあね、日本武尊とか、弘法大師、或いは弁慶やらダイダラボッチなんかは、日本中どこでも出没しますから、小角だって、理由無く八ヶ岳に来てもいいわけです(~_~;)・・。
とは言っても、分かっている範囲で小角の石像は山梨県に2体しかないそうですから、なんとなく気になるのですネ、一体何故こんなところにって・・。
■話は飛びますが、明治初年に神仏分離令が出ました。天皇の政治支配を正当化する根拠を「記紀神話」に求め、神道だけが、ただひとつの国教である、とした訳です。
今までの伝統的な神仏習合の形態を一掃して、国家神道を確立しようと狙った訳ですね。徳川幕府の基盤でもあった寺領や檀家制度の崩壊も狙ったのでしょう。ところがこれが「廃仏毀釈」という過激な運動に進んでしまい、今では「明治の蛮行・廃仏毀釈」とまで呼ばれるようになってしまいました・・・。
■「明治の蛮行」は民衆と仏教界の抵抗に会い、明治4年には早くも下火になっていきましたが、その間の「廃仏」の凄まじかったことは言語に絶したそうで、各地で経典や仏像が焼かれ、壊されて、仏具や美術品は盗難流失し、さらに全国の半数の寺が廃寺になったということです。
■さて、八ヶ岳南麓の平和な里山にも廃仏毀釈は訪れて、村や区に残る台帳と照らし合わせながら仏像、石仏などを探し出して壊していったといいます。
そこで、この役の小角の石像ですが・・
実はこれも廃仏毀釈の対象であったのです。もともと神道であった「山岳信仰」に小角が大乗仏教を加えて新たに修験道というものを始めたわけですから。
■地主のAさんは、「当時の人々はなんとかこの像を隠そうと必死だった」といいます。幸い昔からここは私有地だったために見つかりにくかったことと、多分そのとき、周囲の道やら階段やらを壊して、 像の存在を隠したのではないか 、と推測するのです。
あたりの地形をよく調べてみると、

石像の前は急坂です

下から覗くと・・上の石像見えますか?

この坂を実際に歩いてみましたが、 かなり急です。誰も入らない藪山ですから、やわらかな地面の上に枯葉が積もって、歩くとふわふわと気持ちが良いです。ところがどうも足裏から「階段があった」ような感触が伝わって くるのです。この坂はきっと昔階段があったに違いありません。

さらに坂をまっすぐ下りていくと、両側に大きな杉の木がある空間がありました。

この空間はまっすぐ石仏に向かっていますので、参道の一部か、祀りのための広場かと思われます。

周囲はこんな藪です。

小さな個人所有の山(森)ですが石仏のあるあたりだけくぼ地になっていて、周囲から隔絶されているような地形となっています。

ここを訪れた時、鹿が5〜6頭あわてて走り去っていきました。まさかこんな平和なくぼ地に人間が来るとは思っていなかったでしょう。

鹿に失礼をしてしまいました。

■ともかく、大事な石像を廃仏毀釈から守ることが出来ました。今後も大事にし続けなければいけないとAさんは時々見回りに行くのですが、つい最近のある日のこと、石仏の本体が倒れて、坂の下のほうまでころがり落ちているのを発見しました。とても一人では持ち上げられません。そこで知り合いにお願いして一緒に復元しようと行ってみると・・・。なんと元に戻っているではありませんか??

■そこは誰も入らない山の中。なんで転がり落ちたのか、なんで元に戻っていたのか?全ては謎です。一体誰が? どうして?
■一緒に復元に行った男性の一人が私の友人で、この話を聞いた私がさっそくヤジウマしてきたというのが、このレポ−トなのであります(~_~;)

■ところで八ヶ岳に残る地名を見ると、特に現在南八ヶ岳と呼ばれるエリアに異様な程宗教がらみの地名が多いことに気がつきます。手元の地図からちょっと拾ってみると・・。
権現岳、阿弥陀岳、行者小屋、大権現、奥の院、地蔵尾根、地蔵仏、真教寺尾根、天狗尾根、大天狗、小天狗、賽の河原、観音平、不動清水、地獄谷、 西擬宝珠、東擬宝珠、石尊峰・・さらに、八ヶ岳の石仏調査で有名なきたむらひろしさんの調査によると(富士見市乙事区に保存されている「八ヶ嶽之図」を照合してみると)権現岳は薬師岳、西擬宝珠は虚空像嶽、と呼ばれていたことが明らかになります。
■修験の山として知られる権現岳と赤岳だから当然と言えば当然ですが、これらと役の小角の関係は?? もしや権現岳または赤岳あたりの開山として役の小角の名前があれば 面白いことになるぞと調べてみると・・・。
■小淵沢高福寺の水原和尚によれば、権現岳の開山はいないそうだ。残念。しかし開山がいないということは、それほど(記録に残らぬくらい)古い昔から普遍的に登られていてたということ で、登山が生活や信仰と結びついていたことは間違いないのだそうです。水原和尚には八ヶ岳と古事記を結ぶ素晴らしい研究があるが、それはまた別の機会に。
■一方赤岳には、前出のきたむらひろしさんの冊子によると、登路によって6人の開山がいるらしい。直明行者、謙明行者、作明行者、等、何故か皆さん「明」という文字がついている。残念ながらその中に役の小角の名前は無かった。
しかしながら、きたむらさんは面白い物を発見している。行者小屋周辺で「神変大菩薩」と彫られた石の発見である。この「神変大菩薩」こそ「役の小角」のことなのだ!「神変大菩薩」とは、小角の1100年忌にあたる1799年(寛政11年)に光格天皇より贈られた諡号(しごう)なのだった。
■どうも不思議だなあ、なんで死後1100年もたって諡号が送られるのか??
■調べてみると、時代は平和な徳川時代。このころの社会に急に信仰登山というものが広まっていったと思われます。
例えば、
享保年間(1716〜1735年)、行者東城作明によって赤嶽開山。山頂に日本武尊他三柱を祀る。
享保年間(1716〜1735年)、大泉八ケ嶽権現社に長谷川繁右衛門が鳥居を寄進。
1754年(宝暦4年)、下諏訪に赤嶽講「敬愛社」が開講される。
1848年(嘉永元年)、植松七朗久衛という人により、県界尾根に天狗像が置かれる
1855年(安政2年)、同じく県界尾根に東方薬師如来が小林平八という人により置かれる。
もっとも、そういう風潮があるからといって何故天皇が諡号を送ったのかは分かりませんけれど・・・。平安時代から御牧の多かった甲斐の国ですから、八ヶ岳の信仰登山と朝廷が何らかの関わりがあったのかもしれませんね。或いは小角はかつて讒言により伊豆に流されていますから、もしかしたら、誤解が解けてその名誉を復権させるために送ったのかもしれません。というのも、小角像の後ろには、「三条院良雅」と刻まれているのです。果たして三条院良雅とは誰か??、光格天皇の使者だったとしたら面白いのですが・・。それにしても何故八ケ岳に?という最初の疑問に帰ってしまいます。

話はあちこち飛びます・・・。
■代々山伏であったという茅野の富田家に残る口伝書留によると、八ヶ岳の山々に祀られている神仏の名一覧に、「神変大菩薩」の名が見える。詳しい記録こそ残っていないが、役の小角が八ヶ岳のどこかの山に祀られていた事実があったということだ。
美濃戸側の行者小屋と山梨側の大泉の両方に役の小角の石柱と石像が見つかっているということは、その両方から登山できる山すなはち赤岳か権現岳に祀られていたに違いない。
■そして、その二つの山は修験道の山だった、となるのだが、一体どちらが先なのだろう。修験者たちがよく登っていたから彼らによって「役の小角」が祀られたのか、「役の小角」が開山したから修験者たちのよく登る山になったのか・・・。
■八ケ岳には幾つもの登路が開拓されていきました。今では廃道となった、長坂から大泉の逸見神社前を通って前三つ頭へ続く「谷戸道」という登山道もありました。
調べてみると、役の小角の石像は、どうやらその登山道上にあります・・。
ということは・・、この石像は、もともと大泉近辺に組織されていた八ケ岳講の人々によって、小角の復権を祝って建てられたものではないか、という推理にたどり着 くのです・・・。その後ますます修験道としての登山道は盛んになっていったのではないでしょうか。

■ちなみに役の小角は役優婆塞(えんのうばそく)とも呼ばれた、とあります。優婆塞」とは寺に入らず仏道を修行する男子の呼称です。女子の場合を優婆夷(うばい)と言います。仏門に帰依した男子を比丘、女子を比丘尼と呼びます。
優婆塞はまた信士といい、優婆夷は信女といいます。仏門にない一般人が無くなって仏となるとき信士信女と名づけられるのはそのためです。
一生を優婆塞として過ごした小角が明治になって廃仏毀釈の影響を受けたとは歴史の皮肉ですが、ここでまた素朴な疑問。現代でも修験者は仏門に帰依していないことになっているのだろうか?と、疑問は次々に出て気ます
■が、そんなことは興味のないヒトにはどうでも良いことだと思いますし、ちょっと調べりゃ分かるだろう、ってなもんですね(~_~;) 私は世界遺産になった修験の道「熊野古道」を今年9月に歩く予定 ですのでちょっと気になって 、あれこれ考察をしてみました。何も新事実は分からなかったですが、一体の石仏からあれこれ考察するということは、大変面白いゲ−ムです。以上で終ります。ここまでおつきあい下さってありがとうございました。

【感謝&参考までに】全ての私の考察の元になった資料は「きたむらひろし」さんの八ヶ岳の石仏資料調査の結果をまとめた数十冊に及ぶ冊子によります。彼の冊子は小淵沢「陶房 酔翁」に置いてあります。興味のある方は是非お求め下さい。なを酔翁のHPの一番したの方にきたむらひろしさんの著作の紹介ペ−ジがあります。ご覧下さい。風の三郎のことについても興味深い記事が満載です。

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