山梨県大泉村 金生遺跡 訪問記

2004年 9月13日(晴)


■金生遺跡:基礎デ−タ
・位置/山梨県大泉村 標高770m〜780m MAP
・交通/JR長坂駅より大泉村行きバスにて「城南」下車又は中央自動車道長坂ICより5分
・見学期間/年中開放 自由見学可
・遺跡の時代/縄文後期〜晩期(3000年〜2500年前)
・発掘経過/1979年 県営圃場整備事業に先立つ確認調査で発見
        1980年 発掘調査開始 3400uの保存決定
        1982年 国史跡指定
        1984年 大泉村歴史民族資料館オ−プン 出土資料多数展示
        1987年 環境整備事業開始
        1991年 歴史公園としてオ−プン
・問合せ先/大泉教育委員会 電話:0551-38-3115

〜謎多き金生遺跡〜
見渡す限り圃場整備された八ケ岳南麓の斜面に、そこだけ不思議な空間が取り残されていた。図や写真で見慣れた縄文時代の村落とは一風変わった遺跡である。奥に見えるモンゴルのゲルのような家は一体なんだろう?これが縄文の風景としては違和感を与えている。
資料によると、この建物は全国でも始めての「壁立ち構造」での住居復元であるということだ。
発掘の祭に「掘り込み」や「周堤」が見られなかったことからこのような建物にした、とあるがどうもよく分からない・・。
中を覗いてみると、どうやら柱を組んで茅をびっしり編み込んであるようだ。その外側に粘土質の土で固めて壁を作ったという按配だ。

これはまた随分住みにくそうな住居である。夏暑く冬寒そうだ。天窓らしきものもない。火も焚けないのではないだろうか。

何かの貯蔵庫か、祭祀の時だけ使用されたというような感じの建物である・・・。

すっかり整備された遺跡公園の入り口。。男根と思われる大きな石棒が空に向かって屹立している。鳥居のようでもあり、道祖神のようでもある。結界を示しているようでもある。

もともとこのようなものがこのような形で埋もれていたのかは定かではないが、公園整備の時にこの遺跡のシンボルとしたのだろう、つまりここは縄文時代の大きな祭祀の場ではなかったのか、と。

それを裏付けるように、ここからの出土品は異常に祭祀に関するものが多い。石棒、石剣、耳飾り、垂飾り、石冠、独鈷石、酒器或いは神々に供えるためのものと思われる土器類、等など。
そして他に類を見ないおびただしい数の石で作られた祭壇状の配石遺構と敷石遺構。敷石遺構はあきらかに神々の住まわれる所で はないか(祭祀を行う立場にある人物の住居という説と、当時の流行で、普通の人も住んだという二つの説があるが・・)。又、スト−ンサ−クルも見られ てますます楽しい謎が深まっていく。

さらに、焼けた猪の顎の骨が138頭分同じ箇所から出土したという。これはアイヌの熊祭りと同じようなことが行われていたのかもしれない、と説く学者もいる。

配石に使われた石の中には八ケ岳では産出しない花崗岩の巨石(1トンの重さがあり、10キロも離れた釜無川から運ばれた)もあり、又、垂飾り(ペンダント)には新潟地方にしか産出しないヒスイ製のものも出土したという。
これらのことから、ここは多くの人が交流した場所であり、又、多くの人の共同作業があったこと等が推測され、さらには周辺地域に住んだ縄文人の共同祭祀場ではなかったかと考えられ るというのである。
そこで、最初の疑問に戻る。白い壁の建物は果たして普通の人々の住居跡なのだろうか。
多くの人が行き交った集落にもし当時もこのような住居があったとすれば、私などは遠来の客人をもてなす宿のような性格の建物ではなかったかと勝手な想像を膨らませてしまう。もしかしたら私の先祖はそこの主だったのかもしれない、やっぱり自分は昔から宿泊業に縁があったのだ(*^_^*)
或いは、「共同祭祀場に住む人々」といって推理できるのは・・・・。今で言えば、神主のような職業の人か、或いは神として祀られたもの達(例えば 王のような権力者、例えば呪術師、例えば神そのもの)等だったかとも想像する。
遺跡訪問の楽しみはこういう勝手な想像をめぐらして自分だけの自由な世界に浸れることだ。時間と空間を超えて自分もその時代人になってみる。学者先生がなんと言おうと自分の空想の中には入ってこれない。
ところで、金生遺跡を巨大な祭祀場と見た場合、御神体はなんだろうか。私は素直に八ケ岳がその御神体山だと思っているのだが、南アルプスの甲斐駒ケ岳或いは地蔵岳をそれに見立てている学者も多い。その理由の一つは発掘時地中に埋もれていた石棒が全て南アルプスの方を向いていたから、というのだが、これはあてにはならない。地震その他で同じ方向に傾いてしまったことだって考えられる。
もう一つの理由は、建物を住居跡と見た場合、配石遺構(祭壇)より高い位置に住居があるのは考えられないというものだ。祭壇と八ケ岳の間に住居があるのも、ちょっとこれは如何なものかね、というのである。
しかし、「祭壇は南側から祈るように造られているのは事実で、八ケ岳を御神体山に見ていることは動かせない」(山日新聞社刊「山梨の考古学」)と説く学者もいる。
そうなると、建物はやはり普通の住まいではなく、神のよりしろ的な使われ方をしたのではなかったか、と思われるのだ。
もっとも、ここには縄文後期から晩期の遺跡として約1000年の連続した時間が流れている。石棺墓も発掘された。時代により、住居としても使われ、墓場としても使われ、祭祀の場としても使われた可能性も高い。
縄文後期から晩期に人口が激減したとされる中部地方では文化的にも衰退し、独自の文化は無かったとされていた考古学の定説が、金生遺跡の発掘によって覆されたのだ。 もはやどんな新しい事実が解明されてもおかしくは無い。
研究が進むに連れて縄文社会の精神生活の奥深さも理解されてきたようだが、まずは遺構の時期的変遷の全容解明が待たれるところである。
私がここを訪問した日はあいにく周囲の山々が雲に覆われて確認できなかったが、一番上の写真でも分かるようにここはあっけらかんと開放的な立地である。周囲360度の山々が全て見渡せ て、随分と贅沢な立地である。中でも八ケ岳の山々は遺跡のすぐ北側に聳えている。日々の糧を得ていたであろう遺跡の周囲を仮に「里山」と呼ぶならば、八ケ岳は「奥山」として畏敬と信仰を集めるに充分な威容を誇ってい た。
謎を秘めた金生遺跡だが、静かに佇んでいると、八ケ岳に抱かれた縄文人達の高度な精神生活と豊な暮らしが自然に頭に思い浮かぶ。ただそこに居るだけで心豊になれる、そんなエネルギ−を持った素敵な空間であった。

(文責 S.Taga


■参考HP
http://www.vill.akeno.yamanashi.jp/PDF/0407/12-13.pdf
■参考資料
・山梨県の歴史散歩/山川出版社
・山梨県の遺跡/山梨日日新聞社
・山梨県の考古学/山梨日日新聞社
・史跡金生遺跡/大泉教育委員会

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